●暗渠化され逝く養老田川の現状(2010,1現在)

 

 京都市右京区西院、、狭い住宅地の中を流れる養老田川・・・2年ほど前から上流部分で河川の暗渠化工事が始まっており、ずっと心の隅で気にかかっていたのですが、現在どのような状態になっているのか、この度河川の姿を見に行ってまいりました。其処で見た光景は・・・嗚呼、、ぼくの養老田川が。。以下、言葉にならない想いを抱えつつ簡単ながら2010年1月末時点での現状レポートです。

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 四条通に架かる養老田川橋から上流方向を見ています。Tenkei様のレポートによる、白い四角形の導水管が埋められる痛々しい光景が忘れられませんが、此処に暗渠の開口部が。。護岸の旧い石垣と明らかに異質な中央の真新しいコンクリートが、此処まで埋めたぞと無言の意思表示をしているかのよう。。。この上数メートルに渡ってアスファルトで固められ、そこで工事は一旦終了。それから随分と経ちますが、ここから上流側がその後どうなっているのか、ずっと気になっておりました。

 

CIMG1958.jpg (151535 バイト)  ガーン!!すっかり砂利で埋められてしまっているでわないですか。工場と民家との隙間に愛すべき細い流れがあったのに、、パワーショベルが都市の暴力を否が応にも感じさせます。。

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 先ほどの流路を上流側から見たところ。この場所に架かっていた小米橋は完全撤去。欄干も親柱も銘板も何ひとつ現存しておりませんでした。味のある屈曲流路もすっかり砂利道状態です。付近に工事の概要が掲示してありました(画像参照→)。計画では流路部分が歩行者専用通路になるのだとか。ちなみに河川名は"よろたがわ"と読むのだそうです。。

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 同じ地点から上流側。ずっと砂利道状態が続きます。微かにのぞく護岸と青いフェンスが、此処が河川であることを主張しています。確かにこの部分は特に道路幅が狭く、ゆったりとした面積を殆ど水の流れていない河川が占領しているとあっては、付近住民からすれば暗渠化は当然なのかもですが。。"暗渠化中"の立て看板とオレンジの作業用フェンスが何とも痛々しい限り。

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 少し先を下流側に向かって撮影しています。暫くは護岸の上部が残ったままの状態が続きましたが、少し行くとそれも完全に埋まってしまっておりました。土中に埋められる予定の円筒形の導水管が放置されております。

CIMG1966.jpg (36233 バイト) 護岸部分には既に歩道が出来つつあります。。
 橋が残されている箇所がありましたが、これも撤去は時間の問題でしょう。橋だけがあって河川が無いという状態は、まるで一時期の"はりまや橋"のよう。はりまや橋の堀は現在復旧しておりますが、此処・養老田川が再び姿を現すことは残念ながら二度と無いでしょう。ところで、ずっと当然のように河川のある光景があった訳ですが、それを例えば写真のような何らかの記録媒体で残されている方はどのくらいおられるでしょうか、、と考えると非常に心もとないです。。それすら無ければ本当に二度と、二度と目にすることは出来なくなってしまいますが、殆どの方にとってはそれも大した事ではないのでしょうか。。 CIMG1971.jpg (135447 バイト)

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 現在進行形で暗渠化中の箇所に到達してしまいました。丸い導水管が埋められ、真新しいマンホールが設置されております。四条の暗渠開口部では、導水管は四角形でしたが何処から変わったのでしょうか。河床部の小型パワーショベルが暗渠化の作業中です。これが都市の暴力でなくて一体何でしょう。。

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 暗渠化中の箇所のほんの少し先にあるこの水門も数日のうちに撤去されてしまうのでしょうが、訪問時は辛うじてまだ残されておりました。源流となる西高瀬川の水源が絶たれてしまった時点でこの養老田川も本来の河川としての目的を果たさなくなってしまっていた訳で、水門が使用されている形跡は既にありませんでしたけれども、それを差し引いてもかなりの年代ものだと思われますので、何とかこの水門だけでも養老田川の碑と共に存続させるのは難しいでしょうか。右の画像は上流側を撮影。屈曲の先が三条通です。

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 三条通から下流側を見たところ。私が最初に見た養老田川が此の場所でした。西大路三条から河川の存在を思わせる道路の起伏を見つけた私は、通りの柵越しにこの味わい深い光景に出逢ったのでした。石造の護岸、河床部を僅かに流れる水、隣接する木造の建物、屈曲する流路、、全てが完璧。養老田川の原風景が此処に。。個人的に最も好きな場所であるだけに、せめてもこうして再び見ることが出来て良かったと思います。しかしおそらくはこの眺めも今日が最期となるのでしょう(涙)

CIMG1979.jpg (131158 バイト)  三条通から上流側を見ています。この部分はおそらく私道になるのか、護岸部分のフェンスも設置されていない状態です。河川の上に家を建ててしまっておられますね。。三条通迄の養老田川は確実に暗渠化される予定ですが、この部分はどうなるのでしょうか。元々この暗渠化の意図は"住宅密集地への緊急車両の通行を三条側・四条側から可能にするため"との事ですが、三条通以北はどうするのか。。実際にこの箇所の暗渠化工事を進めるのなら、まず河川の上に建っている家を退かさなければなりませんし、、此処に住まわれている方は心中穏やかで無いかも知れませんね。。河川もこの先で行き止まりですから無理に道路を造らなくてもいいような気が致しますが、、工事の行方を見守りたいと思います

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 養老田川の源流部にある水門。手前を流れる西高瀬川から取水する形になっている訳ですが、昭和初期に西高瀬川の水源が絶たれ殆ど用を為さなくなってしまいました。住宅地に突如出現する水門というのも、素敵な存在感を醸し出しております。尤も水門は形骸化してしまってはいるものの、現在の養老田川はそれとは別に、新たに別の水源からの水を流さなければならなくなった訳ですが。。河川の達人・Tenkei様の今後の詳細なレポートに期待したいところです(爆)

 

●養老田川下流部

 ついでにといっては何ですが、養老田川下流部についても簡単にレポートしたいと思います。

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 四条通に架かる養老田川橋(竣工年月日表記無し)を上流側にある暗渠化部分の上から見たところです。橋の手前で流路が左右に広がっているのが分かります。画像では判別し難いですが河床部にも傾斜がついていて少ないながらも水の流れが急な箇所です。−という事は、この橋を境に川幅は広く、河床部は深くなり、全体的に河川規模が大きくなるという事ですね。

CIMG1946.jpg (96305 バイト)  養老田川橋南側から下流方向。先ほどと同じ河川とは思えない変貌振り。この養老田川橋の下に合流式下水の開口部がある事がTenkei様の調査により明らかになっておりますが、この河川規模の増大はおそらく雨天増水時の合流式下水を下流へと流す為のものであろうと思われます。養老田川橋下の河床部の傾斜も、上流方向への汚水の逆流防止に拠るものでしょう。流路は直進した後90度西へと屈曲します。

 

CIMG1944.jpg (96432 バイト)  90度屈曲した後、一直線で西へ流れます。上流部と違って完全に合流式下水の排水路として整備された都市河川の姿です。に、西日が眩しい。。

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 昭和42年3月竣功・第一橋は金属製の欄干を持つ橋。但し表記は"だいいっきょう"では無く"だいいつきよう"です。平仮名表記の文字が若干踊っているようで何処となくアートな仕上がり?

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↑第一橋から上流側 ↑第一橋から下流側。向こうに見えるのは第二橋です。

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 昭和38年3月完工・第二橋は表札型の銘板が入った石橋です。第一橋よりも旧いという事は、第一橋は後年になって金属製の橋に架け替えられたという事でしょうか。"だいにきよう"の文字も若干躍っているようで、先ほどの"だいいつきよう"と同じ意匠の仕事でしょうか。しかし味気の無い橋名と風景とが続きますが、"都市の合理化一点張り"といった風情。。河川が整備された当時はそれも近未来のような雰囲気に見えたりもしたのでしょうか。。

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↑第二橋から上流側。見えているのは先ほどの第一橋です。 ↑第二橋から下流側。葛野大路通に架かる西院橋が見えています。
CIMG1925.jpg (45129 バイト)  西院橋(昭和38年12月竣功)の付近では何やら工事が始まっておりまして、、この場所の工事概要はよく確認致しませんでしたが、"せせらぎの流れる街に−といった文字が並んでおりました。もしかしてビオトーブでも造るのでしょうか。まさか養老田川下流域を地下2層式のビオトーブロードに、とか??引続き今後の工事の動向を見守りたいと思います。
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↑西院橋から上流側。第二橋が見えております。 ↑西院橋から下流側。第三橋が見えます。護岸を見ると、画像中央付近で川幅が広げられているのがお分かり頂けるでしょうか。

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 第三橋の銘板各種。こうしてみると何処となく墓石のように見えたりもして。。一部親柱が欄干から分離しかかっており、金属製のロープで括り付けられておりました。コンクリートが激しく削られてしまっておりますが、大型車に当てられでもしたのでしょうか。。昭和38年3月完工。。竣工、竣功、完工、、竣工年月日って色々な呼び方があるものです。しかしこの銘板、取り付けが少し斜めになっていやしないでしょうか。。

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↑第三橋から上流側、西院橋を望む ↑第三橋から下流側。突き当りが第四橋及び天神川との合流点です。

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 第四橋(昭和38年3月完工)の銘板。此処でもやはり親柱がロープで括られております。おそらく橋名が平仮名表記された銘板が入っていたと思われる反対側の親柱は既にありませんでしたが、崩落してしまったのでしょうか。崩落が衝突事故によるものでなく自然発生だとすると橋の強度もちょっと心配かも。年代からいっても昭和初期の橋はあちこちで架替が行われております事ですし、養老田川もそろそろ架替工事が必要な時期なのかも知れません。ちなみに第二・第三・第四橋は竣工年月が同じ。そのうち第三・第四橋は、意匠も全体的に甚だ似通った造りになっておりますが、第三橋だけ"橋"の文字が旧字体になっております。

CIMG1910.jpg (109128 バイト)  天神川との合流点から養老田川河口部を見ています。手前に架かるのが第四橋、奥に小さく見えるのは第三橋。こうしてみるとどちらも小さな橋で、昭和初期の雰囲気をよく伝えています。昭和初期の建築の特徴は、橋の欄干や、鉄道の駅、喫茶店・食堂etc、、全体的にこじんまりとしているところ。現代と違って、身体の大きな人はそんなにおられなかったのでしょうか
CIMG1911.jpg (122312 バイト)  合流点のアップ。極めて少量ではありますが、ちゃんと天神川に水を落としております。動画→

 

 思えば小学4年生になった時に初めて"自転車"というものを買ってもらって、早速実家の近くを流れる西高瀬川を源流まで遡る旅に出た私。その過程でこの養老田川を見つけて、、かれこれもう何年前になるのだろう。。それはそうと、この河川の銘板には何故かどこにも河川名を平仮名表記したものが無く、ずっと"ようろうたがわ"だと思っておりました。四条通の"養老田川橋"に限って橋名の平仮名表記もありませんし。Tenkei様による調査で初めて正式名称を知った次第で、更に今回の工事概要の掲示板で改めて確認致しました。一風変わったこの河川名の由来は何でしょう。しかしこの名称を知るのに随分と長い時間がかかってしまったものです。。
 河川について色々と調べてみて意外に思ったのですが、東京の街にはたとえ小河川であっても暗渠化の記念碑が建てられていたり、銘板の入った欄干が残されていたりする事も多いようです。日本の首都ともなると、すっかり開発の手が入ってしまっていて旧いものは跡形も無いのでわと思っておりました。京都よりも歴史が浅い分、そういった開発の歴史をも大事にする風潮が顕著なのでしょうか。逆に京都の方がその点容赦が無いというか、"1200年の伝統"だとかそういった類の歴史でなければ、省みられる事は少ないようです。都市河川は跡形も無くなってしまいます。。
 初めて訪れたあの日からずっと、私の心の奥底を静かに流れ続けている養老田川、、いやたとえどんな姿に変えられてしまおうとも、きっと流れ続けるに違いないのです。これからも、ずっと、、永遠に。。。。

 

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