●都市河川最終形態・旧天神川(京都市右京区)の巻

 

 さて、これも京都市南部の河川でありますが、旧天神川..実にアバンギャルドな存在です。ご覧になればお分かり頂けるかと思いますが、果たしてこのような状態のものを、そもそも河川と呼んで良いものかどうか、ちょっと考えてしまいます。。"河川"という単語を辞書で引いてみると「山から流れ出して地上の窪んでいるところに沿って流れ、やがて海に注ぐ水の流れ」とありますが、仮にこれを定義と踏まえると、この川は法律上は一応河川とされているものの、既に河川とは呼べないものなのかも。。元々あったであろう水源は完全に絶たれ、コンクリート河床の真ん中に生活排水を少しずつ少しずつ集めては南流し、やがて西高瀬川へとそそぐ都会の排水路です。

 道路の拡張が行われたり、バイパス道路が通ったり、大型スーパーが出来たりと、変わりつつある京都市南部において次々と都市河川が消失している昨今の状況を考えると、この旧天神川もそう遠くない未来に地上からその姿を消し、永遠にマンホールの下に埋められてしまう運命なのかも知れません。逆にいうと、今こうして現存している事の方が奇跡的な状況なのかも。現在の佇まいも相当なものですが、それでも無くなってしまうとなるとどうしても寂しいものがあります。これらの写真はいつ無くなってしまうかも知れないのなら今のうちに記録しておかなくてわ−という思いから、今から約10数年前に撮影していたものですが、つい先日久し振りに訪れた際も、川はあまり変わらない姿で其処にあり、安心したような、寂しいような、切ない気持で殆ど水の無い川底を見詰めていた私でした。。。

 

 

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 西高瀬川に架かる門口2の橋(もんぐちにのはし)から旧天神川と西高瀬川の合流地点を見ています。右が西高瀬川本流、左が支流の旧天神川です。真ん中の家、スゴイ場所に建っていますね。。ご覧のように両河川ともコンクリート敷河床の中央に流路が作られており、70年代の後半にこのような工事が行われた(最初は盛り土で、その後でコンクリート舗装されました)のですが、よく見るとわざわざ朱く色分けされており、また独特のデザインも施されているようで、なかなか芸が細かいです。このように流路が整えられる前は、旧天神川河口部の橋の下にいつもゴミが堆積していたように思います。他の場所では意外にも当時からあまりゴミの散乱は見られませんでしたが、平成になって空き缶のポイ捨てをする人もサスガに減りました(煙草のポイ捨ては減りませんが)し、河川に限らず全体的に街がキレイになってきているかも知れません。両河川共に殆ど水が無い状態ですが、雨が降ると何れも急激に水位が上昇し、普段の姿からはとても想像のつかない全く異なった様相を呈します。典型的な都市河川という訳ですね。いつだったか大雨が降った際に西高瀬川のこの少し下流にある九条通の橋をバスで通ったのですが、濁流が橋の本当にすぐ下まで迫っていてゾッとしたことがありました。一瞬"避難しなきゃ!?"と思いましたもの。。其処以外はいつもと何も変わらない風情なのに、コンクリートの流路だけが..其処だけがまるで嵐の海のような様相を呈して、モノスゴイ勢いで水流がやってきていたのを今でもハッキリと覚えていますが、あれはかなり異様な光景でした。
 さて旧天神川ですが、流域の何処かに嘗ては染物工場があったのか、70年代には染料の香り漂う紫色の水が流れておりました。それが日によってはオレンジ色であったり、青色であったり、、"さて今日は何色かな"なんて思いながら川面を見ていたものでした。その後工場が閉鎖になったのか、はたまた水質が大幅に改良されたのか、80年代の終わり〜現在では色のついた水は流れていないようです。
 2番目の画像の手前に見えている橋が旧天神川の八重橋(やえばし?)で、西高瀬川の護岸沿いに下って来た道がこの橋を経由してこちらへ来る格好になっています。右側の橋は西高瀬川の門口三ノ橋(もんのくちさんのはし)で、同じ通りに旧天神川の淵ノ西橋があります。今回のレポは、此処からこの旧天神川を遡って行くことに致します。さて、この先にはいったい何があるのでしょう、、どんな光景が広がっていて、そして源流部はどうなっているのでしょうか。。

k-tenjin27.jpg (17788 バイト)  付近にあった住宅地図です。ちゃんと"旧天神川"が存在している。。。これで合流点付近の地形がお分かり頂けるかと思いますが、合流点の先に旧天神川に連続して2つの橋が架かっています。西高瀬川は真っすぐ北へ、旧天神川は住宅地の中へと入って行きます。。

 

 

 

 

 

 

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 旧天神川、、これがこの河川の正式名称。考えてみればスゴイ名前。旧天神川..では今は?と思わず訊ねたくなってしまいます。正式名称が別にあって旧・○○川、通称・○○川というのなら分かりますが、堂々正式名称ですもの。。このような名称は全国でもかなり珍しいのではないでしょうか、、と考えていたら、伏見区に旧高瀬川(流路が付け替えられる前の東高瀬川)、山科区に"旧安祥寺川"という河川があったような。。京都市ってこういう名称が好きなんでしょうか。旧天神川というからには元々此処が天神川(現在は別の場所を流れています)だったのでしょうけれど、嘗て河川の付替えが行われる前は、現在の西高瀬川が天神川の流路であったと聞きます。京都の水の歴史の中でも重要な部分だと思われますので、是非残しておいて欲しいものです。
 合流点の手前に架かる八重橋は見たところかなり旧い橋で、竣工年月日は明記されておりませんが、架設されたのはおそらく昭和30年代頃ではないかと思われます。昔の橋は今と違って欄干が低いのが特徴ですね。嘗て八重橋の下でコンクリート河床は一旦途切れており、現在のような中央に流路が整備されてはおりませんでした。小さな滝を形成して西高瀬川に色のついた汚水を流入していたものです。水の色は赤紫色で、滝の下付近は泡立っておりました。。まだ小学生だった頃、当時は登下校の際に西高瀬川下流の橋をいつも渡っていたのですが、ある時ふと紫の水が何処からやって来るのか確かめるため下校途中に川を遡り此の合流点までやって来て、汚水の出所が判明したのに小さな感動を覚えたものでした。それは自分自身の目で何かを突き止めたという達成感のようなものだったでしょう..環境汚染のタイトルで作文にも書いたのを覚えています。

 

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 八重橋の奥に架かる渕ノ西橋(ふちのにしばし)から上流を見ています。公園の端を枯れ川が通っておりますが、暗渠化されたらすぐにも歩道に転用できそうな雰囲気です。。これはおそらく都市河川としても最終形態。こうなってしまうと河川としてはもはや末期状態です。他に水源があるようにも到底思われませんので、この先の段階はもうどう考えても暗渠化しか道は無いと思われます。しかもそうなったら確実に下水路に変えられてしまう筈。そうなるともう河川とは呼べませんから、せめてもうこのまま忘れられていた方がいいのかも。。水量はいつもこのようにコンクリート河床の中央にほんの少しあるだけで、流れているんだかいないんだかよく分からない状態で、強い雨でも降らない限りこれ以上増えたりすることはありません。この光景..誰がどう見たって河川としての存在意義を疑ってしまいます。
 この渕ノ西橋も竣工年月日の明記がありませんが、橋の形態と埋め込まれた銘板が八重橋と酷似しており、おそらくほぼ同時期の架設であると思われます。向こうの屈曲の先に見えるのは西中橋です。こうして見ると、公園の木々と相俟ってある種の風情が感じられなくもないですか。。

 

k-tenjin03.jpg (13974 バイト)  西中橋(にしなかはし)もかなり旧い橋で、竣工は昭和34年11月。老朽化のため何年か前に架け替えられたようですが、さほど大掛かりな工事ではなく単に補強しただけといった感じで橋自体はあまり大きくは変わっていないようです。銘板もそのままの状態で付け替えられたりはしませんでした。ちなみに旧天神川のコンクリート護岸は画像のようにくぼみがついていて、また河床部までに段差も設けられており、何とかすればそれを足場にして川底に降りることも出来なくは無いですね。わざわざそんな事をする人がいるようにも思えませんが。。いえ、危険ですのでどうか降りたりなさいません様に。。

 

 

 

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 非常にオーソドックスな形態の橋です。石材と鉄材のコントラスト、低い欄干、嵌め込まれた表札型の銘板、どれをとっても。これでせめてもう少しちゃんとした水源さえあれば完璧なんですが、これはこれでそういうものなのかも知れないという気もしてくるから不思議。。水源が絶たれる前は水量はそこそこあったのでしょうか、、もし当時の写真等があれば見てみたいものです。

 

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 西中橋から上流を見ています。何やら工事が始まっているようでかなり雑然とした雰囲気なんですが、画像に見える橋は何れも通路用に架けられたもので銘板などはありません。嘗ての天神川の残骸がこうして都市の隙間に辛うじて残っている..変わり果てた姿で..嗚呼..

 

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 工事地点を越えると西浦橋ですが、殆ど資材置き場のような状況になっておりました。。実はこの橋、当初銘板は付けられていませんでした。私が最初にこの場所を訪れた時も名前の無い橋だったのですが、それが或る日行ってみると橋の欄干などは全くそのままで突然銘板だけが新しく入れられているではありませんか。確か'85〜'86年頃です。全く忘れ去られた河川という訳ではなかったのか..ちゃんと管理されているという事実に驚きを隠し得ませんでした。でも、一体どうして??

 

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 西浦橋から上流を見ています。この場所は建築業者の拠点になっているようで、いつもこんな感じで工事用の資材が置かれていたり、工事車両がとまっていたりします。この先約90度の屈曲を超えると八条通に出ます。

 

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 屈曲部に近づいて撮りました。屈曲の先が八条通です。パワーショベルの格好の置き場になっていますね。川に落ちたりしないかちょっと心配です。。しかし川には哀しいほど水がありません。。全国に都市河川多けれど、ここまで廃れた状態の河川を目の当たりにする機会はナカナカ無いんじゃあないでしょうか。嘗ては私の実家の近くに"鍋取川"というかなりのツワモノが存在しておりました(何れご紹介致します)が、残念ながら平成の初頭に暗渠化されてしまっており、現在では歩道になった流路跡が確認できるのみとなっております。鍋取川無き今、更に京都市内でも都市河川の小さな流れが次々と姿を消している現在(養老田川も暗渠化工事中)とあっては、もしかしたらこの旧天神川が最強かも。。だとしたら、ある意味では貴重な存在と言えるのかも知れません。何れにしてもだからといって手放しで喜ぶことは決して出来ない状況ですが。。

 

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 八条通に架かる西の庄橋(にしのしょうばし)です。ご覧のようなかなり錆びついた鉄の橋が架かっていたのですが、現在ではカタチはそのままで色だけキレイに塗り替えられております。しかしその際に、嘗てあった錆びた銘板がどういう訳か全て取り外されてしまい、現在この橋の名称を正確に判別することは出来なくなってしまいました。確かに橋が彩色されているのに銘板だけが錆びたままというのも考えものかもですが、それにしても。。バブルが崩壊した後の財政難時代では、新たに銘板を設置するような余裕も無いということでしょうか。

 

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 西の庄橋から上流を見ています。90度屈曲した先で今度は真っすぐ直線..とても人工的なかほり。。向こうに向田橋が見えます。

 

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 向田橋(むかいだばし)から下流部を見たところ。銘板の形態を見ても判るように、この橋の銘板も西浦橋と同時期に後から付けられたものでして、だから何れも字体・形態が全く同じで竣工年月日の表示も無い(お役所でもきっと正確には分からなかったのでしょう)訳です。しかし"西浦橋"、"向田橋"というのは元々あった正式名称なのでしょうか。それとも銘板を設置する際に新たに命名されたのか。この銘板設置事件は私にとってかなり謎なのですが、その時はこの先上流部の橋にも新たに取り付けられていやしないかと確認に行ったのですが、銘板が入っていたのはナゼかこの西浦・向田両橋のみだったのでした。それもまた不思議。まさか付近住民の要望があったとも思えませんので、これも公共工事の一環だったのでしょうか。。

 

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 向田橋から上流部を見ています。直線区間が終わり、屈曲で先が見通せなくなっております。此処から先はやたらとこのような自然な感じの屈曲が多くなりますが、逆にここから下流域では屈曲はあまり見られず、西の庄橋〜西浦橋で約90度、西中橋〜で約45度の屈曲があるのみ。しかも屈曲の後にそのまま直線という非常に都市河川的というか人工的な様相。実は現在の"旧天神川"はどうやら後から人工的に開削された河川のようなのですが、この向田橋から上流は嘗てこの場所に何らかの−或いは用水路のような小さな流れがあってそれを土台にして開削されたのかも..と思わせるような流路の自然な屈曲が見られます。何れにしてもこの橋を境目に川は若干異なった様相を呈します。此処から先暫くのあいだは隣接する道路も無く、また屈曲が多いため河川の姿を見ることの出来ない区間になりますが、以前持っていた70年代の地図では、この少し先で支流(現在は消失)が左手から合流していた筈なのです。今はその地図も持っておりませんので判然とはしない訳ですが。。

 

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 −という訳で、向田橋を乗り越えてちょっと中へ入ってみたところです。前の画像の屈曲の先になります。支流の合流点跡は結局判然としなかったのですが、後から写真で見ると、位置的に画像の中央より左の土管がそれではないかという気がします。すぐ上のコンクリートブロックも他と比べて若干色が違っているように思うんですがどうでしょう。しかしもしそうだとしたら、暗渠化されたもののやはりこちらも水源は絶たれてしまっているようです。土管から水が出ている(出ていた)形跡はありませんから。。という訳で、せっかく橋を乗り越えたことですので此処から先は下に降りて河川の中を歩くことに致します。さて、この先どのような光景が広がっているでしょうか。。

 

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 前の画像の屈曲を先に進むと養鶏場?のような場所(右岸にある突出したプレハブ)に出ます。其処から下に夥しい汚物が流れ出していて、かなり匂いもキツいです。川の反対側は隣接する工場のちょうど裏手にあたります。

 

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 川床部を歩いていると、何だかイケナイことをしているような気が.."不法侵入"という単語が不意に頭をよぎったりもして、ちょっとドキドキします(実際には河川自体は誰の所有でも無い筈ですので不法侵入にはなりませんが、お役所には怒られてしまうかも)。。前方に見えるのは工場の施設だと思いますが、しかし河川の上にこのようなものを作っても良いものでしょうか。。これはたとえ河川を暗渠化したとしても歩道には出来そうに無いですね(いや決して暗渠化して欲しくないですけれども)。土地の空間所有権というのはどうなっているんだろう?
 しかしかなり退廃的な雰囲気。。何の予備知識も無くこの画像だけを誰かに見せて、果たしてこれを普通に河川であると答えるでしょうか。そのくらいアバンギャルドな佇まいだと思います。これは一体何のために存在しているものなのか..クエスチョンマークが果てし無く現れては消える。。

 

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 トンネルを抜けるようにして工場施設の下を潜ります。意外に天井が低くて何となく落ち着かないです。。無言の威圧感があって、あまり入りたくないですが、構わずに取り敢えず先へ行く次第です。。

 

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 トンネルを出たところで漸く向こうに橋が見えてきます。本来見ることの出来ない箇所を探索することが出来て、後ろめたいながらもちょっと得をしたような気になったりもして。。街は人生の舞台装置、人生はドラマ。そして此処はちょうど街の舞台裏。華やかなスポットライトは当たらないけれど、だからこそ此処からはより真実に近い姿が見えるのです(なんてネ)。。

 

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 左の護岸に隣接する工場の排水路がありました。もしかしたらこれも元々は何かの河川の流路だったのかも??最初に訪れた際にはこれが例の支流かとも思ったのですが、地図で見ると位置がかなり違っているので即刻却下た訳です。しかし此処にも嘗て別の支流があったという可能性も無くは無いですね。考え過ぎかな。。

 

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 漸く橋が見えてまいりましたが、これは通路用のものでして名称や竣工年月日の記載はありません。工場の敷地は此処で終わり、此処から先は住宅密集地になります。こんな場所で写真を撮影したりしてかなり挙動不審なんですが、どうか誰にも見られません様に−

 

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 この辺りになると、下流域に比べて深さもあまり無くまた川幅も狭まっており、全体的に河川の規模が小さくなっているためこんな風に川底を歩いていると尚一層人目につきやすい状態に。。左側に道路が隣接していてかなり落ち着かないです。

 

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 コンクリート護岸のあちこちに排水管が口を開けています。こうして街の汚水を集めて川は流れ逝く訳です。確か何処からか洗濯の水なんかも流れ出てきていたような気が。。此処は河川のすぐ両岸に住宅が密集していて、このように河川の中にいるところを誰かに見られると本当にマズいですし、また排水管の口から突然いつ汚水が出て来るかわかりませんので、早々に撮影を済ませて立ち去るに限ります。

 

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 旧天神川の最上流部に架かる橋です。前述の銘板設置事件のあった際は、此処にも銘板が入っていやしないかと見に来たのですが、残念ながらありませんでした。。しかし銘板は無くとも、行政的にはちゃんとした名前があるのかも知れないですね。さて、いよいよ旧天神川の小さな旅も終わり..源流が近いです。

 

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 先ほどの橋を超えたところ。これが旧天神川の源流部−源流と呼べるようなものかどうか分かりませんが、暗渠の開口部です。中は漆黒の闇で、その暗闇の中からゴォォォというモノスゴイ水音が聞こえてきます。コチラ側には水が殆ど無い状態なのにどうして?と素朴な疑問。あの中はどうなっているんだろう?暗渠化される前の流路がそのまま残っているんだろうか??

 

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 −という訳でちょっと中を覗いてみました。フラッシュ撮影してみましたが、流路は暫く直線でやがて左に屈曲しているのが分かります。此処はさしずめ都会の鍾乳洞..なんて言っている場合ではありません。中は轟くばかりの水音が反響して、とてつもない圧迫感。旧天神川には殆ど水がありませんでしたから、この暗闇の中の何処かで確実に突然大量の水が出現する場所があるという事です。比叡山のお化け屋敷よりもコワイ。。一刻も早く立ち去りたい、と思いつつ何故か中へ−

 

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 前の画像の屈曲部から先を撮影。暗渠に入ってすぐの直線区間は後方から射し込む自然光で足元も何とかなりますが、屈曲部から先は鼻をつままれても分からない本当の"闇"。しかも辺りは轟音。すぐそこに大量の水が迫っているかも知れないという緊迫感。。サスガに逃げ帰りたい衝動に駆られますが、せっかく此処まで来たのだし、そしてモチロン2度と来る事も無いだろうからと気を取り直して先へ進みます。懐中電灯を持参して後日改めようかとも思いましたが、この部分だけでももう2度と再訪は嫌です。本当に勘弁して欲しい状況なのですが、内部の様子が知りたいという探究心が私を先へ進ませるのでした。。屈曲先であろう闇の部分にカメラを向けて撮影したのが上の画像なのですが、屈曲の先で更に右方向へと大きく屈曲した状態です。フラッシュをつけた瞬間に一瞬このような流路が見えたので、それを手がかりに左の壁伝いに摺足で進みます。漆黒の闇の中..大きく一歩踏み出してしまうと、すぐそこに水が来ている(しかもモノスゴイ勢いで)可能性もありますので、地続きである事を確認しながらの前進です。暫く壁伝いに手探りで来ましたが、少し行くとその壁も途切れて先が無くなっていました。。うぅ、、此処まで来るともうサスガにこれ以上は無理。闇の部分にカメラを向けて最後の撮影。おそらくはもうすぐ其処まで水が来ている筈ですので、フラッシュの光の先に何があるのか、見る勇気はありませんでした。それが下の画像です。撮影してすぐに逃げ帰りました。。

 

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 ご覧のように合流式下水道になっているようです。あの溝の部分におそらくとてつもない勢いで下水が流れているのでしょう。水音の割には意外とそれほど幅は無いように見えますが、深さがかなりあるのかも知れません。。そして其処から溢れ出た水が旧天神川に流れ出して来ていたのでした。実際に強い雨が降ると、河川の水位は川床から約半分くらいの高さにまで上昇します。しかし..サスガにこの現実はちょっと暗澹たる気持ちになってしまいます。上流部がこの状態ですから、何をどうしたって旧天神川が河川としての形態を保てる筈も無い訳です。しかし合流式下水道は衛生面でも近年になって問題視されており、此処もそう遠くない未来に変えられる可能性もありますね。
 普段我々が何気なく歩いている道路のすぐ下にこのような世界が存在しているとは一体誰が想像するでしょうか。。此処はまるで別世界..日常の裏側の異空間。すぐ上の地上に人の営みのある光溢れる世界がある事を忘れさせるような虚無の世界が広がっているのでした。。

※当時、河川流路の調査目的で暗渠に入りましたが、危険ですので絶対に中へは入らないで下さい

 

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 七条通から金網越しに下流側を見ています。この下の部分が先ほどの暗渠で、その向こうのプレハブ小屋の先に開渠になった河川があります。夕暮れを告げる風が静かに吹いていて、言いようのない寂しさを感じます。。嘗ては此の場所に"佃田橋(つくだはし)"という石造のかなり旧い橋が架かっていました。親柱に"佃橋"と毛筆体の文字で直接に掘り込んであったのを覚えています。人通りの多い場所に架かっていた橋なので、欄干はある程度の高さを持っていました。橋の袂にはお地蔵さんがあって(これは現在もあります)、この橋の辺りだけ如何にも歴史のありそうな趣深い雰囲気を醸し出していたものでした。但し川床部分を見なければ、の話ですが。。私が最初にこの旧天神川を訪れたのは1980年頃。今回と同じように向田橋からは川床部を歩いて此処までやって来た訳ですが、その時は現在のように下水の暗渠が口を開けているという事は無く、コンクリート護岸もそのままに流路は直進し佃橋の北側すぐのところで行き止まりになっておりました(以北の上流部はその当時から既に消失)。したがって暗渠内部のあの大掛かりな屈曲は、下水道を新たに整備した際に付けられたまるきり人工的なものであるという訳です。佃橋の遺構が地上に何も残っていないので、せめて暗渠の中に何か見つからないかと思ったのですが、あの内部の屈曲を見た時点で橋はおろか嘗ての流路さえも跡形も無く消えてしまっている事を実感した次第。此処から先の上流部は完全に消滅してしまいました。地上にはモチロン、地下にも全く残っていません。此処まで辿ってきた旧天神川は、暗渠の闇の中に吸い込まれて消えてしまいました。何とも寂しいことです。。

※調べてみたら、佃橋の橋桁に使用されていた石が、東山区の安祥院というお寺に保存されているようです

 

         ◆現在の旧天神川全景

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 今回辿ってきた現在の旧天神川全景です。上の地図の細く蛇行している流れが旧天神川。佃橋跡となる開渠の最上部を横切る道が七条通、現存する旧天神川開渠部分はこれで全てです。ところが、嘗ては旧天神川本流の他に佃橋から東へ七条通沿いに分派する別の流路が存在したようです。ようですというのは丁度その部分に川幅くらいの植込みが歩道脇に続いており、流路跡がハッキリと残っているからなのですが、佃橋で屈曲した後そのまま東へ真っすぐ流れ、その先で西高瀬川に合流するカタチになっていました。現在その流れ自体は消失していますが、上の地図をよく見ると西高瀬川との合流点だけが現存しているのが分かります。実際にその合流点だけはナゼか川床部がそのまま現存しており、コンクリート河床の中央に流路が設置された状態のまま現在も放置されております。西高瀬川に向かって大きく屈曲した状態なので、土地の転用が難しいのかも。当時からずっとそのままですが、近年になって周囲に新しく色々なお店が建ち並ぶようになって来ましたので、何れ変わってしまうかも知れません。この流路ですが、最近書店の古地図フェアにて昭和初期の地図を見る機会があったので確認してみると、実は嘗て天神川だった頃の本流であった事がわかりました。つまり天神川は佃橋から七条通に沿って東へ流れ、暫くして南方向に屈曲(即ち現在の西高瀬川であり、西高瀬川は嘗ての天神川であった)、そのまま南流するという流れだったようです。

 

 

消えた旧天神川上流部−

 以前家にあった70年代後期の地図には佃橋から先の消滅した流路も載っていたのですが、それに拠ると旧天神川上流部はこの先道路沿いに直進しており、交差点を3つ超えて公園の先で左に屈曲し阪急電車の高架下まで続いていました。その地図を手に其処まで歩いて到達するつもりで川を辿ってやって来た小学生時代の私は、佃橋の先で行き止まりになった白い壁を見て呆然としてしまったものでした。。

       ◆旧天神川消失部分(七条通以北)

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 佃橋以北の消失した上流部は前述の地図ではこのようになっておりました。流路の上流端を斜めに横切るのは阪急電車の高架線です。この流路跡は現在どうなっているのでしょうか。この失われた流路を実際に遡って辿ってみることに致します。したがってここから先の画像は2008年〜撮影のものとなります。

 

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 佃橋から先の旧天神川が埋められたのはおそらく70年代後期(持っていた地図がその頃のものだったので)、、今となっては河川があった頃の痕跡を探すのは至難の業。河川だけでなく街の風景も随分と変わっているであろうと思われますので。
 さて、画像は七条通を渡った先から上流側(北側)を見たところです。歩道の部分が河川跡で、私が最初に旧天神川を辿ってきた時には、ちょうど画像のドラッグストアの手前あたりで行き止まりになっていました(当時はドラッグストアはありませんでしたが)。源流部は白い壁状態の本当に行き止まりでしたから、河川は暗渠化ではなくおそらく埋め戻されてしまったものと思われます。埋められてしまうくらいですから既に水は殆ど流れておらず、雨天時に雨水が流れ込む程度だったのでしょう。。

 

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 少し先で道路に隣接する建物の壁がこのように屈曲しているのですが、この屈曲はまさしく河川のあった頃の名残ではないでしょうか。この塀のすぐ下にコンクリートの護岸があったと思われます。元々流れていた河川の周囲に、少しずつ道路や街が形成されていったという名残ですね。

 

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 この道路の左端(歩道部分)を旧天神川が流れていた筈なのですが、もはや跡形もありません。おそらくこの交差点に橋が架かっていたのでしょうか。。護岸の遺構でもあればと思ったのですが、サスガに30年以上の時を経過すると難しいです。歩道がヤケに広くなっているのは間違いなく河川跡でしょうが、それ以外に河川の遺構を見つけることは出来ませんでした。旧天神川を最初に訪問した1980年、その時点でもう既に上流部の痕跡は殆ど残っておらず、こんな感じでした。逆にその時から現代にかけてはあまり大きく変わってはいないように見えます。何処の都市でも70年代から現在に到るまで自動車の数が飛躍的に増え続けている状態ですので、都市化というだけでなく道路の拡張工事は急務だったでしょう。暗渠化された小河川は、その何れもが道路へと転用される訳ですが、このような河川の消失は時代の流れからいっても致し方無かったのかも。。

 

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 東大丸公園のすぐ横を流れていた筈なのですが、おそらくこの歩道部分が河川跡と思われます。が、やはり全く痕跡はありません。公園も歩道もきちんと整備されている感じですので、河川後が無いのも仕方ないかも。。この先90度で左へ屈曲、通りの向こう側(画像のマンション前)を流れていました。

 

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 マンション前から屈曲した先を見たところですが、やはり殆ど痕跡は残っておりません。車道の幅に比べて歩道のスペースが広くなっている事くらいか。。この歩道が河川跡だとすればこのあたりの川幅は下流部のそれと比べるとかなり狭くなっていたようです。橋があったとしても銘板も無かったかも知れません。そしてこの流路跡の歩道を直進した先に阪急電車の高架がある訳ですが(画像右)、当時の地図に記載されていた河川の流路は此処まででした。

 

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 阪急電車の高架を潜った先、このすぐ先が五条通との交差点です。別の地図で確認したところによると、どうやら流路の起点はこの辺りだったようです。この歩道、、このままの状態で五条通まで続き、五条通を超えると途端に幅が狭くなるのですが、やはりこりれは河川跡を利用した歩道である名残でしょう。

 

旧天神川源流について−

 ずっと謎であった旧天神川の源流についてですが、持っていた地図の流路があのようになっていたので、てっきり阪急電車高架の先、その先の何処かに嘗ての源流があり水がやって来ていたのだろうとばかり思っておりました。延長線上には現在の天神川が流れている訳ですが、もしかしたら嘗ては現天神川と直結していたのかもと思ったりもして、天神川の護岸にそれらしき遺構が残っていないか学生時代に探した事すらありました。。

 ..が、最近になって京都の河川のスペシャリスト・Tenkei様から、阪急高架下の流路に関する情報がございました。何でも昭和36年撮影の航空写真に拠ると、東大丸公園以西の流路(上記の屈曲から先の部分です)はまだ存在しておらず、開削工事中であるのが見て取れると。併せて先般書店で見た昭和初期の古地図に載っていた天神川の旧流路を思い出したのですが、地図では公園の先に屈曲などは無く、そのまま北から直線で流れて来ておりました。つまり屈曲から先の上流部分、公園北側の流路は実は嘗ての天神川本流に注いだ支川で、以北の本流上流部だけが先に消失していた為に、画像の地図のような状態になっていた訳です。では一体どうしてそのような事になったのか。。その開削工事されていた支川というのはおそらく下水路であったと思われます。現在では下水はマンホール下を流れるものというのが常識ですが、街が都市化される以前は、側溝や下水路の開削工事といったものもきっと頻繁に行われていたであろうことは想像に難くありません。天神川の流路付け替えによって旧流路は不要となる筈だったものの、天神川の水では無く、上記の下水を新たに流す必要があった為、その部分だけを残したのではないか。天神川の流路変更がされたのは昭和11(1936)年のこと..前年の京都大水害がきっかけであると言われます。流路の変更後、旧流路は上流側から順次廃川化されたと思われるのですが、前述の下水以外にも隣接する染色工場の排水などを通す必要もあった為、何れにしてもその部分の流路は残したのでしょう(冒頭でも述べたように旧天神川〜西高瀬川には、実際70年代までは赤紫色をした泡立った水が確かに流れておりました)。そして更に七条通沿いの流路を廃川化し、七条通から南下する現在の流路を新たに開削..この流路変更はおそらく七条通の道路拡張の意図もあったのではないかと想像します。七条通は京都市内の幹線道路の1つでありますが、旧天神川・佃田橋を境に以西は極端に道幅が狭くなります。路線バスも通っておりますが、擦れ違うのが困難なほど..元々の七条通の規模はそんな感じだったのかも知れません。だから道路の拡張工事に伴い嘗ての七条通沿いの流路を廃川化し、佃橋から南下する流路を新たに"旧天神川"として開削したのかも。そう思って調べてみたのですが、昭和21年撮影の航空写真では、天神川はまだ七条通沿いに流れていました。で、その七条通ですが佃橋の更に1つ東側の交差点から先で既に道幅が狭くなった状態であるのが見て取れるように思います。七条通以南の現在の旧天神川はまだありません。翌昭和22年の写真もほぼ同じ。旧天神川の最も古い銘板が西中橋の昭和34年11月ですから昭和22〜34年までの間に七条以南の流路が開削されたという事になります。

 そうか、やはり此処は"旧天神川"なのだ。厳密に言うとそのままの天神川の旧流路ではないけれど、残った旧流路を更に流路変更して出来た河川..それが現在の"旧天神川"だった訳です。しかし、だとするとこの旧天神川は開削当時から元々下水路であったという事になります。てっきり街が都市化して行く中でいつしかあのような姿になってしまったとばかり思っていた私でしたが、この旧天神川に清流が流れた事は、開削当時から1度も無かったかも。80年代中期になって下水の幹線に直接繋ぐという無粋とも取れる工事が行われておりますが、それも"此処は下水路である"という行政側の認識があったからかも知れません。考えてみれば天神川の流路変更が行われた時点で旧流路の水源は絶たれてしまう訳ですから、"旧天神川"に水が流れる筈が無いのです。流れるとしたら..それはやはり下水でしかあり得ません。永年の疑問がここへ来て一気に氷解した想いが致しますが、何だかパンドラの匣を開けてしまったような空虚感も漂っていたりして。。嘗ての流れはどんなだったのか、殆ど水の無い川底を眺めながらあれこれと想像−ある種の感傷を伴って−していた私でしたが、或いはその姿は開削当時とあまり変わっていないのかもと思うと、様々な思いが弾けて消えてしまったような、、そんな心持ちが致します。。。しかし都市化の中にあって、当時の下水路が現在もほぼそのままの姿で残っているというのは、それはやはり奇跡的な状況だと言えるかも知れません。本当に、よくこれまで暗渠化されずに残ったものだと思います。これから先どうなるかは判りませんけれども。。

 そんな旧天神川の未来はどうでしょう、、決して先行きの明るいものではないかも知れませんが、このままではこの川に清流をというのは源流部があの状態ではどう考えても不可能ですし、暗渠化案が立ち上がってしまったらもう最期、当然ながら反対の声があがるとも思えませんので、やがては八重橋の下で小さな暗渠が口を開けているという状態になってしまうかも。。そう考えると切ないです。。。しかしながら行政の手が入れば処理水を流す等、或いは河川として再生できなくはないとは思います。問題はそういった"京都の水の歴史"を保存しようという行政の意向と世論があるかどうかですが。。しかしそうして再生(最低限の河川の形態を保つという意味での"再生"ではありますが)させる事がいいことなのかどうかわかりませんし、私個人としては是が非でも切望するという事もありません。ただ暗渠化だけは何とか回避して欲しいとは思います。。

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 旧天神川付近でたまたま見かけた側溝です。場所は向田橋から東方向に少し行ったところ。僅かながらちゃんと水も流れておりましたが、嘗ては用水路として役割を果たしたのでしょう。元々こんな感じで流れていた水路の一部を利用して開削されたのが、現在の都市型下水路として整備された旧天神川だったのでわないか、、何だか都市開発の原型を垣間見たような思いが致します。このような水路でも、嘗ての水の流れを知る貴重な遺構なのかも知れません、、河川探索を続けていると、ついそんなことを考えるようになります。人の生活に水は欠かせません。水の無いところでは生きて行かれませんから。人の暮らしはずっと水と共にあった訳です。水に歴史あり、です。

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旧天神川・完

 

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